霊園・仏事の知っ得コラム

もしもスタッフ連載

「大山古墳(仁徳天皇陵)」世界遺産に登録?

2019年06月01日

先日大きなニュースがありました。
それは今年7月に、あの有名な「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」が世界遺産に登録される可能性が高いという話題です。

日本一、いや世界一大きな墳墓といわれる「大山古墳(仁徳天皇陵)」をはじめとする古墳群の事です。
昔は教科書に「仁徳天皇陵」と書かれていましたが、現在は誰が埋葬されているのかはっきりしないため「大山古墳(だいせんこふん)」等々と言われています。
現在は大人の事情?で発掘調査がされないためよく分からないのですが、明治の初めには石棺も確認されておりどなたかのお墓である事は間違いありません。
世界遺産の話が出てからは、毎日のようにテレビや新聞などで取り上げられて大きな話題になっていますね。
古代史などの歴史が大好きな私は、世間で大きく取り上げられてとても嬉しい気持ちです。daisenkohun.jpg

今でも、こうして目を閉じると4世紀~5世紀の頃の日本の国の様子が目に浮かびます。
数千年~何万年の間、アジアの北から西から南から絶えることなくこの海の向こうの小さな島国に人々が渡ってきました。
そして新しい土地で必死に命をつないできました。
文字もなく文明も発達していなかったその頃のこの島国の事は、大陸の絶大な古代文明だった中国の残した記録でしか知る事はできませんが。
3世紀~4世紀頃にようやく国らしくなり、文明も生まれはじめたと思われます。
そして5世紀には統一国家らしきものも生まれ、大陸や半島の国々とも活発に貿易も行うようになったようです。
ちょうどその頃、「仁徳天皇陵(大山古墳)」が造られたと言われています。

当時は今の大阪とは違い、内陸深くまで入江が入り込み湿地帯も広がっていたと思われます。
そしてその全体を見通すことが不可能な程、大きな墳墓を造った理由はまだ分かっていません。勿論、当時の権力者の威信をかけたものかも知れませんが。
ただ、浪速の海からはその巨大な姿が遠くからでもよく見えたと思うのです。
今は木々が生い茂り森のようになっていますが、当時は白い石(葺石)を全体に敷き詰めてあったと言われます。
九州などの地方から、また大陸や半島から、船に乗ってやってきた人達は、青く輝く瀬戸内の海の向こうに白く光り輝く巨大な建造物をみて、驚愕したのではないでしょうか。
そして後方には遠く緑の山々が連なっていたのではないかと・・・。
こうして考えますと、ようやく中央国家らしきものができ、地方の人々や大陸や半島の人々に対して必死になって「文明国家?になった事」をアピールしていたようにも思えます。
6世紀以降は、さらに多くの帰化人達の力も借りて急激に発展した古代日本ですが、その前の黎明期の大きな遺産が、この「仁徳天皇陵(大山古墳)」だと思われるのです。

時代も内容も違いますが、明治維新に一日も早く西洋の先進文化を取り入れて、他国にバカにされないようにと必死に頑張った明治時代の人々の事を思い出します。
煉瓦造りの建造物を次々に作り、鉄道を走らせ、あの鹿鳴館?まで・・・。

こうして古代の日本で懸命に生き、小さな島国で命をつないできた人々が、私達のご先祖です。私達全員の命につながっているのだと感じます。

以上私見ですが...7月に世界遺産に登録された時は、そうした古代の人々へ~ご先祖様へ、想いをはせてもらえたらと思います。

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もしもドットネット コラムスタッフPROFILE

正しいお墓の知識をもって適切なアドバイスを行なうスキルを証明する「お墓ディレクター」資格を保持。
数多くの霊園に実際に足を運び、霊園だけでなく周辺環境の様子など多角的なアドバイスを心がけながら電話やメールでのご相談にお答えしています。

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